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青森地方裁判所 平成2年(ワ)30号 判決

主文

一  被告は、原告甲野一郎に対し金七五九一万二八一〇円、同甲野太郎及び同甲野花子に対し各金二七五万円並びに右各金員に対する昭和六二年四月二日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告らの勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

理由

第一  請求

被告は、原告甲野一郎に対し金一億〇八〇二万四二六四円、同甲野太郎及び同甲野花子に対し各金五五〇万円並びに右各金員に対する昭和六二年四月二日より支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、虫垂炎の手術の際の麻酔事故によりいわゆる植物状態となつた者及びその両親が病院の医師等に過失があつたとして、病院を設置している被告に対し不法行為に基づく損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実(当事者が明らかに争わない事実を含む)

1  原告甲野一郎(以下「原告一郎」または単に「一郎」という)は、昭和四九年九月五日生まれの男子であり、昭和六二年四月二日当時一二歳であつた。原告甲野太郎(以下「原告太郎」ともいう)は一郎の父、原告甲野花子(以下「原告花子」ともいう)は一郎の母である。

被告は、青森県立中央病院(以下「被告病院」という)を開設している。

2  一郎は、昭和六二年四月二日午前二時ころに腹痛を訴え、近くの診療所へ行き痛み止めの薬をもらう等して帰宅したが、その後も痛みが収まらなかつたため、同日八時半ころにかかりつけの内科に行き、急性虫垂炎の疑いがあると診断され、同内科から被告病院宛の紹介状をもらい、同日午前一〇時三〇分ころ、被告病院へ行つた。

一郎は、被告病院で急性虫垂炎の診断を受け、同日被告病院に入院するとともに、被告病院の外科の医師である小寺太郎(以下「小寺医師」という)の執刀のもとに虫垂摘出手術を受けることとなつた(この手術を以下「本件手術」という)。

3  本件手術は同日の午後五時五三分から開始されたが、手術中に一郎は呼吸停止、心停止を起こし、その結果、低酸素性脳障害により回復不能の植物状態となつた(この医療事故を以下「本件事故」ともいう)。

一郎は、その後被告病院等に入院して治療を受けたが症状は改善せず、平成元年一〇月一八日からは重度障害者の施設である県立あすなろ学園(以下「あすなろ学園」という)に入園し、現在に至つている。

三  争点

本件の主要な争点は、一郎が呼吸停止、心停止を起こして回復不能な植物状態となつたことにつき被告病院に過失があつたかどうかという点であり、また、損害額についても争われている。これらの点に関する当事者の主張は、以下のとおりである。

1  原告らの主張

(一) 本件事故の原因

本件においては、高位麻酔によつて脊椎麻酔ショックが発生し、脊椎麻酔ショックが発生していたのに被告病院側の監視と措置が不十分であつたために一郎は呼吸停止、心停止に至り、さらにその後の措置も不適切であつたため、本件のような重大な結果が生じたものである。

(二) 被告の過失

被告には以下に述べるとおり本件結果が生じたことについて過失が存在する。

(1) 麻酔の過量

本件では、麻酔薬としてネオペルカミンSが使用されているが、ネオペルカミンSは、体重一〇キログラム当たり〇・三ないし〇・四ミリリットルを基準とするとされている。一郎の手術前の健康時の体重は四二・五キログラムであり(なお、一郎は、手術当日未明から嘔吐し、何も食べずに衰弱していたから、体重はこれよりも減少していたはずである。)、これを基準とするとネオペルカミンSの投与量は一・二ミリリットルないし一・七ミリリットルの範囲である。被告病院が投与した二・四ミリリットルは大人に対する量であつて極めて多量である。このような麻酔の過量によつて高位麻酔となり、これによる麻酔ショックによつて一郎は呼吸停止、心停止に至つたものである。

(2) 執刀開始の時期

小寺医師は、昭和六二年四月二日午後五時五三分(以下では、特に断らない限り、昭和六二年四月二日のことを指すものとする。)に麻酔薬の注入を行い、その後、麻酔高のチェックを十分に行わず薬液が安定しない麻酔薬注入約五分後の午後五時五八分に執刀を開始した。午後五時五八分ころの拡張期血圧は手術前の五三パーセントまで下がつており、この段階での執刀開始は極めて危険であり、さらに一〇分以上は麻酔高のチェックを行うべきであつた。ところが、このような早い時期に執刀を開始したため、その後は手術に関心が注がれ、麻酔高のチェックが全く行われず、血圧、呼吸状態の監視がおろそかになり、血圧の変化、麻酔高の変化を早期に発見することができず、本件事故に至つた。

(3) 術中監視の懈怠

心停止は突然発生するものではなく、血圧低下によつてその兆候が現れるので、手術中に血圧チェック、心電図モニターの監視を常時行い、その兆候が現れた段階において昇圧剤の投与や心マッサージ等の適切な応急処置がなされれば、患者を救出することが可能である。

しかし、本件では、小寺医師は、麻酔後収縮期血圧が徐々に下降し、麻酔が高位に及んでいる兆候が示されているのに、単に点滴速度を速める措置を取つただけで、来るべき血圧低下に備えて昇圧剤、酸素の投与を行わなかつた。術中についても、小寺医師は、血圧下降を見逃し、あるいはこれを知りながら放置し、呼吸停止に気づいてから初めて回復措置に取りかかつた。また、脊椎麻酔を行う際には心電図モニターを装着することによつて不整脈や徐脈等の心臓の異常が直ちに把握できるが、本件手術においては心電図モニターが装着されず、このため調律や心電図波形の異常の発見が遅れた。さらに、一郎の容態を監視すべき看護婦竹内はる子(以下「竹内看護婦」という)が持ち場を離れたため、一郎の変化の発見が遅れた。

以上のような術中監視の懈怠が原因となつて本件事故が発生したものである。

(4) 心停止後の処置

心停止後の処置としての心マッサージがかなり遅れ、また気管内挿管も遅れたために、本件のような重大な結果が生じた。

(三) 損害額

(1) 逸失利益

金六〇〇〇万四九九六円

原告一郎は、手術時一二歳の男子であり、手術の結果、第一級の後遺障害を負い、労働能力を一〇〇パーセント喪失したものである(一八歳から六七歳までの年収合計額から中間利息を控除。年収額金四四二万五八〇〇円〔昭和六二年の賃金センサス第一巻第一表男子労働者学歴計の年収額〕、ライプニッツ係数一三・五五八。)。

(2) 過去の付添費用

金四三二万九〇〇〇円

昭和六二年四月二日から平成元年一一月一八日までの九六二日間(一日当たり金四五〇〇円)

(3) 将来の付添費用

金九六九万〇二六八円

原告一郎は、平成元年一一月一八日からあすなろ学園に入園したが、その費用のうち月額金二万九〇〇〇円は自己負担である。今後、同種の施設に入所または自宅で介護する必要があり、少なくとも右と同様の出費が必要である(一四歳の男子の平均余命を六二・二九歳として、ホフマン係数〔二七・八四五六〕により中間利息を控除)

(4) 慰謝料

原告一郎の分

金二五〇〇万〇〇〇〇円

原告太郎、同花子の分

各金五〇〇万〇〇〇〇円

(5) 弁護士費用

原告一郎の分

金九〇〇万〇〇〇〇円

原告太郎、同花子の分

各金五〇万〇〇〇〇円

以上のとおり、原告一郎に対して合計金一億〇八〇二万四二六四円、原告太郎及び原告花子に対してそれぞれ金五五〇万円並びに右各金員に対する不法行為の日である昭和六二年四月二日より支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

2  被告の主張

(一) 本件事故の原因

本件事故の原因としては、麻酔によるアナフィラキシーショック(アナフィラキシー様ショック)、迷走神経反射などが考えられ、脊椎麻酔ショックとは考えられないが、その可能性も絶対的に否定できるものではなく、機序が不明な心停止が脊椎麻酔中に発生することも報告されており、結局は特定できないものといわなければならない。

(二) 被告の過失

(1) 麻酔薬の投与量について

脊椎麻酔の麻酔薬の投与量は、患者の体重のみでなく、身長、必要な麻酔領域、一般状態等の要素を勘案して決めるものであり、一郎の入院時の体重四三・五キログラム、身長一五七・五センチメートルからすると、急性虫垂炎の手術のためのネオペルカミンSの投与量として二・四ミリリットルは過量ではない。また、麻酔薬の投与量と脊椎麻酔ショックとの因果関係は、文献上認められていない。

(2) 執刀開始時間について

脊椎麻酔薬注入五分後に執刀を開始することは実際の臨床の場ではよくあることであり、必ずしも異常なことではない。また、本件においては、脊椎麻酔から執刀開始までの時間が短いことと、一郎が呼吸停止、心停止に陥つたこととの間に因果関係はない。

(3) 術中監視について

原告らは、午後五時五八分から午後六時一〇分までの一郎の収縮期血圧が徐々に下降(午後五時五八分に一〇五ミリ水銀柱〔以下血圧についての単位を省略する。〕、午後六時〇五分に一〇四、午後六時一〇分に一〇〇)しており、これは高位麻酔の兆候を示していると主張するが、この変化は微小なもので、原告ら主張のように解釈できるものではない。

また、被告病院は手術に際し自動血圧計を使用して血圧と心拍数を五分間隔で自動的に測定できるようにセットするとともに、その五分間隔の間にも随時手動で測定しており、また、竹内看護婦らがしばしば一郎に声をかけてその返答で一郎の呼吸状態を確認していた。本件事故直前(二分前)の午後六時一〇分に測定した一郎の血圧は一〇〇/三六(収縮期血圧/拡張期血圧)、脈拍は一分間に一〇八回で、看護婦の「痛くない。」との質問にも、「はい。」と返答しており、この時までに一郎の呼吸、循環器系には特に異常な所見は認められず、術中管理に不注意なところはなく、状態も落ち着いていたものであるから、その後の二分間、一郎の状態を把握しなかつたことを過失であるなどということはできない。

さらに、脊椎麻酔による虫垂炎手術の場合に、心電図モニターを装着することは実際の臨床の場では一般に行われているものではなく、したがつて、一郎の手術の際に、被告病院が心電図モニターを装着しなかつたことをもつて、術中の監視が不十分ということはできない。仮に、本件において心電図モニターを装着していたとしても、午後六時一〇分以前に一郎の異常を発見することはできなかつた。

以上のとおり、被告が術中の監視を怠つていたという原告らの主張は理由がない。

(三) 損害額

(1) 逸失利益について

原告一郎は、第一級身体障害者と認定されているのであるから、逸失利益の算定にあたつては、少なくとも三〇パーセントの生活費控除をすべきである。

(2) 付添費用について

昭和六二年五月七日から平成元年一〇月一八日までの間、一郎は被告病院に入院していたものであるところ、被告病院としては原告太郎らの付添看護の必要性を特に認めていなかつた。したがつて、付添費用は認められない。

(3) 慰謝料について

原告らの慰謝料は合計二〇〇〇万円が相当である。

(4) 原告一郎の体質

本件事故には、原告一郎の体質が何らか関係していると考えられるので、損害の公平な分担という観点から、原告らの損害を相当程度減額すべきである。

第三  証拠《略》

第四  争点に対する判断

一  前記争いのない事実に《証拠略》を総合すると、本件事故に至る経過として、以下の各事実が認められる。

1  本件手術に至る経緯

昭和六二年四月二日、一郎(当時一二歳)は腹痛のためかかりつけの内科で診察を受けたところ、急性虫垂炎の疑いがあるとして同内科から被告病院宛の紹介状をもらい、午前一〇時三〇分ころ、原告太郎とともに被告病院へ赴いた。

一郎は、被告病院小児科で診察を受け、急性虫垂炎の疑いがあるとして、外科に行くように指示された。外科部長である菊池彬夫(以下「菊池医師」という)は、昼ころに一郎を診察した結果、同様に急性虫垂炎と判断し、経過をみるために一郎に対して入院を指示し、一郎は被告病院へ入院することとなり、外科の小寺医師が主治医となつた。

小寺医師は、午後零時半ころに一郎を診察し急性虫垂炎と判断したが、すぐに手術が必要とも思われず、一郎がそれまでに何回か嘔吐しており、今後も絶食しなければならないことから、その場では点滴と抗生物質の投与を指示した。その後、午後四時ころに再度一郎を診察し、その結果緊急手術の必要があると判断したので、原告太郎の承諾を得た上で、午後五時三〇分から手術を開始することとした。

午後五時三〇分、一郎は、麻酔前投薬として硫酸アトロピン〇・五ミリグラムとソセゴン(ペンタジン)三〇ミリグラムを筋肉注射された(なお、この時点で、静脈内留置カテーテルにより左前腕部の静脈も確保されている。)。右筋注前の一郎の血圧は一五四/六〇、筋注後の血圧は一二四/七〇であつた。

午後五時四五分ころ、一郎はストレッチャーで七番手術室に搬入され、手術台に移され、五分間隔でセットされた自動血圧計をその右上腕部に装着された(被告病院では、自動血圧計は五分間隔でセットするのが通常であつた。なお、自動血圧計は、この五分間隔の間にも手動で血圧を随時測定できる。)。この時点の一郎の血圧は一六一/九八、脈拍数は毎分一〇八であり、五時五〇分の血圧は一四二/八四であつた。

なお、看護記録(乙三の1--69頁)には、一郎の身長一五七・五センチメートル、体重四三・五キログラムと記載されている。

2  本件手術開始後一郎が呼吸停止、心停止に至る経過

本件手術は、執刀医小寺医師、助手中館敏博医師(以下「中館医師」という)、器械出し渡辺礼子看護婦、血圧脈拍測定竹内はる子看護婦、外回り小林英子看護婦で行われた。

麻酔は脊椎麻酔とし、頭部高位とするために頭部に枕が設置された。

午後五時五三分ころ、小寺医師は、一郎の第三、四腰椎間に高比重脊椎麻酔剤ネオペルカミンS二・四ミリリットルを約一五秒間で注入し(なお、麻酔剤の注入は右側臥位で実施された)、注入後、看護婦が一郎の体位を背臥位に戻し、一郎に目覆いをした。また、当時、被告病院では、全身麻酔の場合や特に心臓に問題がある患者の場合以外は手術に際して心電図モニターをつけないのが通常であり、本件手術に際しても、心電図モニターは使用されなかつた(なお、心電図モニターの使用は保険診療の対象とならない。)。

午後五時五五分ころ、血圧九八/四〇、脈拍数毎分一一〇。小寺医師は、竹内看護婦から右血圧の数値の報告を受け、血圧が下降していたことから、点滴を速める措置を取つた。その後、小寺医師は、消毒を行い、圧布をかけ、麻酔レベルの確認のために一郎の皮膚をピンセットでつまんで刺激を与え、痛みに対する反応で麻酔レベルを調べた結果、麻酔上界が第七胸髄であることを確認した。他方、竹内看護婦は、午後五時五五分ころの血圧等の自動測定後、マニュアルでも血圧等を測定し、小寺医師に報告している(なお、竹内看護婦は、この時の血圧等の値について、午後五時五五分ころ時点のものとさほど変化がなかつたので、麻酔記録に記載することはしなかつた。)。午後五時五八分ころ、小寺医師は麻酔の効果が十分と判断し、血圧も安定してきたことから、麻酔域が上がらないように手術台の頭の方を少し高くした上で本件手術を開始した。この時の血圧は一〇五/四五、脈拍数は毎分一一〇であつた。手術開始の際に、竹内看護婦は、一郎に対して、痛かつたり苦しかつたりした場合にはすぐに言うようにと指示した。

午後六時〇五分ころ、血圧一〇四/三四、脈拍数毎分一〇八。

午後六時〇九分ころ、虫垂切除が終了し、小寺医師は、一郎の顔を見て、「盲腸が取れたから手術はもうすぐ終わる。」などと一郎に声をかけた。なお、小寺医師のいた位置からは、圧布が邪魔になるので、のぞきこむようにしなければ一郎の顔は見えない状態であつた。

午後六時一〇分ころ、血圧一〇〇/三六、脈拍数毎分一〇八、一郎の顔色は特に悪いということはなく、小林英子看護婦の、「痛くない?」との問いにも、一郎は、「はい。」と返答した(なお、この時点までの間に、竹内看護婦らは、一郎に対して何度か声をかけている。)。

虫垂を切除してから小寺医師は、虫垂の断腸を埋め込む作業、腹腔内の膿汁をガーゼで拭き取る作業、止血を確認する作業などをしていた。他方、竹内看護婦は、出血量を量るためにそれまでいた一郎の頭部付近から離れ、落ちている五、六枚のガーゼを拾つて量りでその重さを量り、麻酔記録に記載した。その後、切除された虫垂の状態を見てから、一郎のそばに戻り、「もう、あとは縫つて終わりよ。」と声をかけながら一郎の顔を覗きこんだところ、一郎は顔面が蒼白で呼吸が停止しており、脈も触れないという状態であつた(なお、この時点でも、一郎は目隠しをされていた。)。竹内看護婦は、あわてて一郎のほほを揺り動かして呼んだが反応はなく、脈も触れなかつたので小寺医師らに呼吸が停止していることを報告した(なお、この時間については、麻酔記録〔乙三の1--15頁〕及び看護記録〔乙三の1--70頁〕には、午後六時一二分に一郎が呼吸停止したとの記載があるが、右時刻について、これらの記載をした証人竹内はる子は、後で時間を逆算して記載した旨証言しており、正確に午後六時一二分と特定することはできず、六時一二分前後としか特定でない。)。このとき小寺医師は、前記のとおりの作業を終え、一郎のお腹を閉じようとしていたが、一郎がチアノーゼ状態にあることが判明し、中館医師は、一郎に対してマウストゥマウスの人工呼吸を施し、他方、小寺医師は、看護婦に対して心電図モニターの装着と挿管の指示を出した。

竹内看護婦は、呼吸停止を小寺医師らに報告後すぐに麻酔科の医師を呼びに行き、竹内看護婦から急を聞いて近くにいた麻酔科の医師である志賀健人(以下「志賀医師」という)と鎌田信仁(以下「鎌田医師」という)が手術室に駆けつけた。駆けつけた志賀医師は、一郎の動脈が触れないのを確認し、心マッサージをするように指示し、小寺医師はこれにしたがつて一郎に心マッサージを施し、引き続いて鎌田医師が小寺医師に代わつて一郎に心マッサージを施した。他方、志賀医師は、バッグトゥマスク法により一郎に酸素一〇〇パーセントの人工呼吸を行つた。心電図モニターは、午後六時一四分ころに装着され、一郎が心停止の状態にあることが確認された。また、気管内挿管は午後六時一六分ころになされている。同じ午後六時一六分ころには、一郎の血圧は回復し、午後六時一九分ころの心電図の波形は正常範囲に戻つている。その後、鎌田医師らは、脳の低酸素状態が継続したことによる悪影響を防止するために一郎に薬液の投与等の処置を施した。また、午後六時三七分ころには一郎の自発呼吸が再開している。

午後六時二五分ころに手術が再開され、午後六時三五分ころに終了したが、医師らは、手術室において引き続き一郎の経過を観察するとともに、薬液の投与等の処置を施した。午後九時ころ、一郎は手術室からICU(集中治療室)に移されたが、意識は回復しないままの状態であつた(なお、外科部長である菊池医師も、報告を受けて、午後七時ころに手術室に赴いている。)。

ICUに移る直前の午後九時前ころ、菊池医師は、一郎の両親である原告太郎及び原告花子に、一郎が手術中に心停止を起こしたことを説明し、その後、鎌田医師も両親に説明をしている。

3  本件手術後の経過

その後、一郎は、昭和六二年四月五日に弘前大学病院に転院してそこで高圧酸素療法による治療を受け、昭和六二年五月七日に被告病院へ戻つてさらに治療を受け続けたが、植物状態から回復することなく、平成元年一〇月一八日に被告病院を退院し、重度障害者の施設であるあすなろ学園に入園し、現在に至つている。

二  次に、《証拠略》によれば、脊椎麻酔に関する医学的知見として、以下の各事実が認められる。

1  意義

脊椎麻酔とは、くも膜下腔内にある脳脊髄液の中に局所麻酔薬を注入して脊椎の前根、後根(自律、知覚及び運動神経)を麻痺させる局所麻酔法である。

脊椎麻酔は、第四肋間神経以下の領域、すなわち上腹部以下の手術に適応されるが、特に下腹部以下の手術に有用である。脊椎麻酔は、その麻酔高により、高位脊椎麻酔(麻酔のレベルが乳頭部にある場合〔第四脊椎~第六脊椎〕、すなわち麻酔レベルが第四胸髄レベル以上に達している場合)、中位脊椎麻酔(麻酔のレベルが肋骨弓にある場合〔第六脊椎~第一〇脊椎〕)、低位脊椎麻酔(麻酔のレベルが臍より下の場合〔第一〇脊椎以下〕)などに分類される。

2  麻酔高と麻酔薬の量

麻酔効果(範囲、持続時間)に影響する因子として、麻酔薬の投与量、注入速度、濃度、比重、体位、年令、注入部位、身長などが存在することが指摘されているが、個人差が大きく、精神的な因子によつて麻酔が高位に及ぶこともある。

虫垂の知覚は第一〇脊椎から第一腰椎であるが、本件のような虫垂切除手術においては、必要とされる麻酔レベルは第六脊椎から第七脊椎付近であり、この場合のネオペルカミンSの成人における投与標準量は二・五ミリリットルとされている。なお、若年者(特に一五歳以下の小児)では、その原因ははつきりしないものの、麻酔レベルが予想外に高位に及ぶことがあり、麻酔事故も多いことが指摘されている。このため、「若年者に対しては麻酔薬の投与量を減らすべきである。」とする文献も多数存在するが、若年者に対する投与量としての明確な基準はなく、臨床の現場での取扱も定まつておらず、成年の場合と同様の量を投与する例も多数存在する。

なお、幼小児を除いて、若年者に対しての脊椎麻酔は禁忌とされていない(もつとも、「未成年者には脊椎麻酔は禁忌ではないがあまり行わないこと。」とする文献も存在する。)。

3  麻酔における合併症

(一) 血圧低下

脊椎麻酔により、交感神経節前線維が遮断されると抹梢血管が拡張し、血液がプーリングされるために血圧が低下する。また、心臓を支配する交感神経(第一脊椎から第四脊椎の脊椎神経に由来)は、心拍数、心筋収縮力、心筋伝導時間などに促進的に作用するところ、高位脊椎麻酔によつて心臓交感神経が遮断されると、血圧低下の程度はさらに大きくなる(通常、脊椎麻酔による低血圧の場合は頻脈となるが、高位脊椎麻酔の場合には徐脈となる。)。

脊椎麻酔に伴う血圧低下は、合併症というよりも生理的反応であつて、軽度の場合には特に治療の必要はなく、一般に、平常時の血圧の二〇ないし三〇パーセント低下した場合には治療を要する。治療法としては、酸素投与、輸液の速度を速めること、昇圧剤の投与、両下肢の挙上などが行われる。

高度の低血圧を放置すると、意識消失、呼吸抑制、心停止などの重大な結果を招く。また、脊椎麻酔中、わずか一、二分の間に突然重篤な血圧低下や徐脈が発生したという例も報告されているので、麻酔中の患者監視が極めて重要である。

(二) 呼吸抑制(呼吸停止)

重篤な血圧低下により脳幹部の酸素欠乏状態が発生し、延髄呼吸中枢の機能低下が発現し、呼吸が抑制される。なお、麻酔が高位に及んだ場合には肋間筋が麻痺することがあるが、肋間筋の麻痺のみで著しい換気不全となることはない(麻酔高がさらに上昇して横隔膜神経も麻痺すれば呼吸抑制は起こるが、通常の脊椎麻酔で横隔膜神経が麻痺することはない。)。

呼吸抑制を放置すれば次第に徐脈、不整脈、チアノーゼなどの症状を呈し、呼吸停止に至る。

呼吸抑制を予防するには、適切な局麻酔を使用するとともに、重篤な血圧低下を見逃さないことが重要である。呼吸停止は発見が遅れれば重大な結果となるので、脊椎麻酔施行後はしばしば患者に声をかけ返答を確認することが大切である。また、呼吸抑制が起こつてしまつたら、人工呼吸を行う。

(三) 心停止

脊椎麻酔の合併症の中で最も重篤で危険なもので、原因は呼吸停止を放置した場合が多いが、重篤な血圧低下を放置した場合にも起こる。心停止の兆候として、徐脈や低血圧などが現れ、脊椎麻酔下での徐脈は高度の低血圧に陥るといわれている。他にも大量出血や迷走神経反射によつて心停止が生ずるといわれているが、迷走神経反射による心停止が生ずる場合には、それまでに低酸素症や低血圧などの異常症状が生じているのが通常である。さらに、脊椎麻酔中に機序が不明な心停止が突然生ずることがあるとの指摘も存在する。

心停止の予防、早期の発見には血圧測定と心電図の連続モニターが有効であり、専属のスタッフが全身管理につくことが必要である(前述のとおり、脊椎麻酔中に突然重篤な血圧低下や徐脈が生ずることがある。)。低酸素血症では、初期には頻脈を呈し、心停止前には徐脈を呈する(小児ではいきなり徐脈となる。)。

(四) アナフィラキシーショック

生体内に抗原性物質が入ると生体が異常に強い反応を示し、血圧下降、呼吸停止、心停止などが生ずることがあり、これをアナフィラキシーショックという。

ネオペルカミンSによつてもアナフィラキシーショック(アナフィラキシー様ショック)が生ずることがあるが極めて稀である。アナフィラキシーショックは、アレルギー性疾患を有する患者に発生することが多く、麻酔薬注入後三〇分前後に発生することが多い。初期症状として、喘息、全身発赤、皮膚発赤、発疹などが生ずるのが通常であり、その後、血圧低下、呼吸困難、心停止などに至り重篤な結果を招くことが多い。

4  合併症の防止

(一) まず、麻酔事故は、麻酔域が変動しやすいために生ずるものが多く、麻酔域の把握が事故防止に重要である。このため、麻酔薬は適正量を注入し、注入後は血圧を頻回に測定し、麻酔高を確認し、麻酔高が固定するまで様子をみてその後に手術を開始すべきとされている(文献上は、麻酔薬注入後一五分間は経過を観察すべきとしているものが多い。)。麻酔薬注入直後に手術を開始した場合(最短三分、最長一一分、平均六分)に麻酔事故が多いことも指摘されている(甲三一〔宮崎証人の論文である。〕)。

他方、希望する高さまで麻酔が得られ、一般状態が良好なら手術を開始してよいとする文献も存在し、鎌田証人や宮崎証人も同様の証言をしており(宮崎証人の証言は、右の宮崎論文と若干ニュアンスが異なるが、外科医一般の立場を代弁したものと思われる。)、臨床時にも本件の場合のように麻酔薬注入五分後位に執刀を開始する例も多く見られる。

(二) 麻酔事故は、麻酔薬注入後三〇分以内に生ずるものが多いが、その後に発生することもあり、ネオペルカミンSを使用した麻酔の場合、麻酔高の固定には四〇ないし五〇分かかるといわれている(「約一時間は麻酔領域が上昇する。」との文献も存在する。)。したがつて、麻酔薬注入直後のみではなく、その後も相当時間麻酔管理を怠つてはならない。

(三) 血圧低下を防止するには、血圧、脈圧、心拍数に注意を払う必要があり、これには血圧測定器と心電図モニターが有効である(これらを使用する必要があるとする文献がほとんどである。)。血圧については、初期の段階(麻酔薬注入後二〇分位)では二、三分おきに測定し(「一、二分おきに測定」と指摘する文献も存在する。)、以後安定すれば五分おき位に測定すべきとされている。高位脊椎麻酔の場合には、血圧下降、徐脈、呼吸抑制、意識障害などの症状が現れるが、高位麻酔にならなくても血圧低下は発生するので注意が必要であり、また、心停止前には徐脈が出ることが多いのでこれにも注意しなければならない。呼吸抑制の早期発見のためには、患者に話し掛けてその反応を逐時観察することが重要である。

このように血圧下降、呼吸抑制などの合併症を監視するために、医師又は看護婦が患者から絶対に目を離さないようにしなければならない。

(四) 前述のとおり、若年者(特に一五歳以下の小児)については、成人に比して麻酔が予想外に高位に及ぶことがあり、麻酔事故の例も多数報告されているので特に注意を要する。なお、若年者に対しては、注入薬液量を少なくし、注入後も麻酔高を頻繁にチェックするなどの注意をすべしとする文献、さらには、未成年者には脊椎麻酔は禁忌ではないがあまり行わないほうがよいとしている文献も存在する。

(五) 麻酔による合併症が発生した例として、文献上以下のような例が報告されている。

(1) 脊椎麻酔中に突然重篤な血圧低下と徐脈が出現し、一分後に心停止、呼吸停止となつた例

最初の兆候は患者の応答の喪失であり、高位脊椎麻酔による交感神経遮断に迷走神経刺激が重なつたために生じた重篤な低血圧、徐脈であると考えられる。

(2) 脊椎麻酔中、わずか一、二分の間に重篤な徐脈、低血圧が発生した例(五例)

うち三例は高位麻酔による交感神経ブロックの関与が考えられるとして(そのうち二例は、先行する心拍数の漸減現象は認められず、一、二分の間に突然徐脈に陥つている。)、文献では脊椎麻酔中の持続的モニタリングの重要性を強調している。

なお、チアノーゼ、血圧低下、呼吸困難などの脊椎麻酔事故の初期症状は、麻酔の経過中一般状態が良好と思われていたときに急変して現れることが多いことを指摘し、局所麻酔投与後の三〇分間について患者監視の重要性を強調する文献も存在する。

三  以上を前提に、まず、一郎が呼吸停止、心停止を起こした原因につき検討する。

1  前記認定のとおり、一郎の異常に竹内看護婦が気付く約二分前である午後六時一〇分ころの一郎の血圧は一〇〇/三六、脈拍数毎分一〇八で、麻酔薬投与後の午後五時五五分ころの血圧、脈拍数と比較しても安定しており、脊椎麻酔に通常伴う血圧低下として特に異常なものとは認められない。なお、原告らは、一郎の手術前の血圧である一六一/九八を基準として一郎の血圧は著しく低下していたと主張し、これに沿う小島証人の証言も存在する。しかしながら、前述のとおり基準とすべき血圧は平常時のものであり、これを基準に二〇ないし三〇パーセント血圧が低下すれば何らかの処置が必要となるのであり、一郎の平常時血圧については明確な資料がないが、一郎が当時一二歳の男子であつて、特に高血圧症であつたとの資料もないから、平常時の収縮期血圧は一一〇ないし一二〇位と推定される。したがつて、午後六時一〇分ころの血圧が特に異常であつたとは断じ難い。そして、その約二分後には、一郎は呼吸停止、心停止に陥つている。

ところで、前記認定のとおり、脊椎麻酔中に呼吸停止、心停止が起きる場合として、<1>血圧の低下(高位麻酔の場合も含む)が原因となつて呼吸停止→心停止と進行する場合、<2>重篤な血圧低下によつて心停止が起きる場合、<3>迷走神経反射によつて心停止が起きる場合、<4>アナフィラキシーショックにより呼吸停止、心停止が起きる場合、<5>機序のはつきりしない突然の心停止の場合、などが考えられるので、以下、それぞれについて検討する。

2  血圧低下による呼吸停止が原因となる場合

前述したとおり、血圧低下は、脊椎麻酔に通常伴うもので、特に麻酔が高位に及んだ場合には血圧低下の程度も大きくなるのであり、重篤な血圧低下を放置すると呼吸停止、心停止に至る。したがつて、一般に脊椎麻酔中の呼吸停止、心停止の原因としてまず考えられるのが、このような血圧低下である。

ところが本件では、午後六時一〇分ころの時点で特に血圧や脈拍に異常は認められなかつたのであるから、血圧低下を原因と考えると、約二分間の間に、血圧低下→呼吸中枢麻痺→呼吸停止→低酸素症→心停止という経過をたどつたこととなり、やや不自然の感を否めない(鎌田証人や宮崎証人もこのような点を根拠に、本件事故が高位脊椎麻痺によつて生じたということについては否定的である。)。しかしながら、血圧低下から心停止に至るまでに最低どの位の時間を要するかという機序については必ずしも明らかではなく、脊椎麻酔中、わずか一、二分の間に急激な徐脈や血圧低下が突然生じた例も報告されていることからすると、右のような機序による呼吸停止、心停止の可能性を完全に否定することはできない。

3  重篤な血圧低下

重篤な血圧低下による心停止の可能性があることも文献上指摘されており、本件でも2で述べたのと同様に、この可能性を完全に否定することはできない。

4  迷走神経反射

前述のとおり、迷走神経反射による心停止が生ずるには、それまでに低酸素症や低血圧などの異常症状が生じている場合に限られるが、本件においては、午後六時一〇分ころの時点でこのような異常症状は現れていない。しかしながら、2で述べたのと同様に、約二分間の間にこのような異常症状が発生する可能性も存在するから、迷走神経反射の可能性も否定できない。

5  アナフィラキシーショック

《証拠略》によれば、一郎にアレルギー性疾患があつたことを窺わせる事実はなく、また、アナフィラキシーショックの初期症状として現れるべき喘息や全身発赤等の症状が全く現れていないことが認められ、以上の事実からすると、アナフィラキシーショックの可能性はほとんどないものと認めるのが相当である。

6  機序のはつきりしない突然の心停止

脊椎麻酔中に機序のはつきりしない心停止が突然生じる例があることが外国の論文において指摘されているが、右の例の具体的内容自体明らかでなく、右文献に対しては批判も存在する上、前述したように突然の心停止は急激な血圧低下や迷走神経反射によつても生ずる可能性があることからすると、本件事故の原因を機序のはつきりしない突然の心停止であるとすることは相当でないといわざるを得ない。

7  以上のように、本件事故の原因については、血圧低下に伴う呼吸停止、重篤な血圧低下、迷走神経反射などの可能性があり、結局、その原因を明確に特定することはできないというべきである。

四  以上を前提に、被告の過失の有無について判断する。

1  麻酔薬の投与量

前述のとおり、虫垂摘出手術の際のネオペルカミンSの投与量の標準は二・五ミリリットルとされているところ、若年者については、麻酔が高位になりやすいことから投与量を減らすべきであるとの指摘がなされている。

しかしながら、若年者に対する投与量としての決まつた基準があるわけではなく、実際に臨床の場では成人と同様の量が投与されている例も多く見受けられ、また、前述したとおり本件事故の原因は高位麻酔と特定することはできない。したがつて、二・四ミリリットルのネオペルカミンSを投与したこと自体必ずしも適切な処置とは言い難いが、これをもつて本件事故につき被告病院に過失があつたと断ずることはできず、麻酔薬の投与量が過大であつたとする原告らの主張は直ちには採用できない。

2  手術開始の時間

前述したとおり、麻酔薬注入後一五分位してから手術を開始すべきであると多数の文献で指摘され、麻酔薬注入直後に手術を開始した場合に麻酔事故が多いことも指摘されているが、その理由とするところは、手術が始まるとそちらの方に注意が集中して十分な麻酔管理ができず、何か異常が起こつた場合に適切に対処することが困難となるために、麻酔高がある程度安定するまでは手術を開始しない方がよいという点にある。

ところで、前記のとおり、本件においては、手術中一郎の血圧や表情などの容態を監視する看護婦(竹内看護婦)が配置されているほか、執刀医である小寺医師以外にも助手として中館医師が立ち会つており、また、麻酔薬注入後特に異常な血圧低下があつたとは認め難い。したがつて、執刀医である小寺医師が手術に集中していても十分な麻酔管理ができるように人員が配置されていたのであり、また、本件事故は麻酔薬注入後一九分後位に生じていることからすると、本件事故につき、麻酔薬注入五分後に執刀を開始したこと自体をもつて直ちに被告病院に過失があつたとはいい難い。

3  手術中の麻酔管理

前述のとおり、脊椎麻酔においては、種々の合併症が生じ、その中には心停止のような重大なものもあり、麻酔中の一般状態が良好な時に突然重篤な徐脈や血圧低下が生じて心停止に至る可能性も存在する。また、若年者の脊椎麻酔については、麻酔が予想外に高位に上がることがあり、突然の心停止などの重大な麻酔事故が生ずることも多く、若年者に対する脊椎麻酔は特に注意が必要である(前述したとおり、若年者は脊椎麻酔の禁忌とはされていないが、避けるべきであるとする文献も存在する。)。

このように、脊椎麻酔、特に本件のような若年者に対して脊椎麻酔を実施した場合には、その危険性に鑑み、麻酔に伴う合併症を予防するため病院として最大限の努力、注意を払う義務があるというべきであり、仮に病院がこのような努力なり注意を怠つた結果麻酔事故が発生した場合には、病院側は債務不履行ないし不法行為責任を負うこととなる。

そこで、被告病院側の麻酔管理について原告らが主張するような過失がなかつたかどうかについて、以下検討する。

(一) 麻酔後収縮期血圧が徐々に下降しているにもかかわらず、小寺医師は、単に点滴速度を速める措置を取つただけで、来るべき血圧低下に備えて昇圧剤・酸素の投与を行わなかつたとの点について

前述のとおり、一郎の血圧は麻酔後に低下したが、これは麻酔薬投与に通常伴う範囲のもので異常な低下とまでは認め難いから、小寺医師が昇圧剤や酸素を投与しなかつたことが不適切であつたとは断じ難く、この点に過失があつたとする原告らの主張は直ちには採用できない。

(二) 心電図モニターを装着しなかつたことについて

前述したとおり、脊椎麻酔を行う場合に自動血圧計や心電図モニターが必須であることは多くの文献において指摘、強調されているところ、被告は、心電図モニターの使用は保険診療の対象とはならず、臨床の場においても一般的に使用されているものではないから、これを使用しなかつたからといつて被告に過失があるとは言えない旨主張する。

確かに保険診療の対象とならず、かつ臨床の場においても一般的に使用されているものでもない器具を使用しなかつたことを過失としてとらえることは被告病院にやや酷であることは否定できない(もつとも、臨床の場において一般的に使用されていないことのみをもつて使用しなかつたことが法律上正当化されるべきではない。)。しかしながら、右のとおり脊椎麻酔には心電図モニターが必須であることは文献上も明らかであること、現に心電図モニターの装着を実施している病院も存在すること、被告病院には心電図モニターが存在しいつでも使用可能な状態にあり、心電図モニターを使用すること自体被告病院にとつて特に経済的な負担となるものではないこと、被告病院は青森県においても有数の設備と陣容を備えた病院であり、県民からそれに見合つた水準の高い医療が期待されていること、本件のような一五歳未満の若年者に対する脊椎麻酔においては麻酔事故が発生する可能性が高いことが指摘されている。さらに、本件では、若年者に対するものとしては比較的多量の麻酔薬が使用されており、特に高位麻酔には注意すべき状況にあつたこと、麻酔薬注入わずか五分後に執刀を開始していること、精神的な因子によつて麻酔が高位に及ぶことがあるが、一郎の前記の各血圧から明らかなとおり、痛みと手術前の緊張が相当高度であつたと推測され、また、一郎の平常時血圧自体不明であつたのであるから、血圧低下により一層の注意を払うべきであつたといわざるを得ないこと(以上の本件に特有の事情を以下「特に注意すべき諸事情」という)、以上の諸点に照らすと、本件においては、患者監視の必要性が特に高く、被告病院には麻酔事故が発生しないように心電図モニターをあらかじめ装着して患者の状態を厳重に監視する義務があつたものと認めるのが相当である。

(三) 竹内看護婦が持ち場を離れたことについて

前記認定のとおり、一郎の血圧、脈拍、呼吸状態などの一般状態を監視する役割を有していた竹内看護婦は、午後六時一〇分ころに一郎の血圧や脈拍に異常がないことを確認後、出血量の確認等のために一郎のそばを離れ、その約二分後に一郎のところへ戻つてきたときに一郎の異常に気付いている。

ところで、前述したとおり、ネオペルカミンSによる脊椎麻酔は比較的長時間(約一時間)効果が持続し、麻酔高が変動する可能性があること、脊椎麻酔中の重篤な事故は麻酔薬注入後三〇分以内に多数生じていること、本件事故は麻酔薬注入約一九分後に発見されていること、脊椎麻酔中にはそれまでの経過に異常がなくても一、二分の間に突然重篤な徐脈や血圧低下が発生し、心停止などの重大な事故に至る例が文献上報告されていること、特に本件のような一五歳未満の若年者に対する脊椎麻酔においては麻酔事故が発生する可能性が高い上、本件では前述のように特に注意すべき諸事情が存在したこと、以上に照らすと、麻酔薬を注入した午後五時五三分ころからの経過が良好で、午後六時一〇分ころの血圧、脈拍数、呼吸に特段の異常がなくとも、被告病院には、その後患者の容態が急変した場合に備えて患者を厳重に監視する義務があつたものといわざるを得ない(特に本件においては、心電図モニターも装着されておらず、また、自動血圧計も五分おきに測定するようにしかセットされていなかつたのであるから、患者監視に当たる者の役割は極めて重要である。)。

したがつて、竹内看護婦が一郎のそばを離れたことは、その時間がほんの数分間のわずかな時間であつたとしても、右義務に違反したものと評価せざるを得ない。

4  心停止後の処置としての心マッサージがかなり遅れ、また気管内挿管が遅れたこと

前記認定のとおり、心停止後に心マッサージが遅れた事実は認められず、また、気管内挿管を行う前に志賀医師は、バッグトゥマスク法により一郎に酸素一〇〇パーセントの人工呼吸を行つていたものであるところ、《証拠略》によれば、志賀医師の右措置に何ら不適切な点は存在しないものと認められる。

したがつて、心停止後の措置に過失があつたとする原告らの主張は理由がない。

五  このように、被告病院には、前記四3(二)及び(三)で述べたとおりの過失が存在するが、次に、このような被告病院の過失と一郎が回復不能な植物人間となつたこととの因果関係について検討する。

1  前記認定のとおり、本件で一郎が呼吸停止、心停止に陥つた原因については、いくつかの可能性が存在し、これを特定することはできない。しかしながら、考えられる可能性として前に掲げた血圧低下に伴う呼吸停止、重篤な血圧低下、迷走神経反射については、いずれも、心停止に至る前に血圧低下、呼吸停止、徐脈、低酸素症などの症状が生ずるはずであるから、心電図モニターの装着と厳重な患者監視を行つていれば、より早期に異常を発見することが可能であつたものと認めるのが相当である。そして、少しでも早期に一郎の異常を発見して必要な処置を講じていれば、一郎が植物状態にならずに済んだ可能性が高いものと認められる。

2  したがつて、前記認定の被告病院の過失によつて一郎が植物状態になつたものと認められるから、被告には、不法行為に基づき、これによつて生じた損害を賠償する義務があることになる。

六  原告らの損害

1  逸失利益

原告一郎は労働能力を一〇〇パーセント喪失したものと認められ、また喪失期間は一八歳から六七歳までとするのが相当である。なお、原告一郎は、回復不能な植物状態にあり、通常人が必要とするような意味での生活費は要しないものと認められるから、その生活費の三〇パーセントを控除するのが相当である。

年収(昭和六二年の賃金センサス第一巻第一表男子労働者学歴計)

金四四二万五八〇〇円

ライプニッツ係数

一三・五五七七

(計算式)

四四二万五八〇〇円×一三・五五七七×〇・七=四二〇〇万二五六八円

2  過去の付添費用

三七二万四〇〇〇円

原告一郎が被告病院及び弘前大学病院に入院していた昭和六二年四月二日から平成元年一〇月一八日までの期間(九三一日間)の付添いについては、特に医師の指示によるものではなかつたが、原告一郎が入院当時一二歳であつたこと、回復不能の物状態にあつたことからすると、右全期間にわたつて付添費用を認めるのが相当であり、付添費用としては、一日金四〇〇〇円とするのが相当である。

(計算式)

四〇〇〇円×九三一=三七二万四〇〇〇円

3  介護費用

原告一郎が、平成元年一〇月一八日からあすなろ学園に入所したこと、入所費用のうちの自己負担分は平成四年三月までは月二万九〇〇〇円であり、平成四年四月からは月四万一二〇〇円となつたこと、以上の各事実が認められる。ところで今後も一郎は介護なくして生活することは不可能であり、一郎が二〇歳を越えるとあすなろ学園を出なければならず《証拠略》、そうなると、右入所費用のうちの自己負担分月額四万一二〇〇円以上の介護費用が必要であることが明らかであるから、右記載の介護費用は最低限の金額というべきである。そして、平成四年当時一郎は一七歳であるから、一七歳の男子の平均余命である五九・七九年は右費用が必要であるものと認められる(五九年のライプニッツ係数一八・八七五七)。

(計算式)

(平成元年一〇月一八日~平成四年三月三一日〔二九ケ月と一四日〕)

二万九〇〇〇円×(二九+一四÷三一)=八五万四〇九六円

(平成四年四月以降)

四万一二〇〇円×一二×一八・八七五七=九三三万二一四六円

4  慰謝料

合計 二〇〇〇万〇〇〇〇円

本件の慰謝料としては、原告一郎に対しては金一五〇〇万円、原告太郎及び原告花子に対してはそれぞれ金二五〇万円が相当である。

5  弁護士費用

合計 五五〇万〇〇〇〇円

本件の弁護士費用としては、原告一郎に対しては金五〇〇万円、原告太郎及原告花子に対してはそれぞれ金二五万円が相当である。

6  損害の合計

原告一郎 金七五九一万二八一〇円

原告太郎及び原告花子

各金 二七五万〇〇〇〇円

7  なお、被告は、本件事故には原告一郎の体質が何らかの関係があると主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠は存在しない。

第五  結論

以上の次第であるから、原告らの本訴請求は、原告甲野一郎において金七五九一万二八一〇円、同甲野太郎及び同甲野花子において各金二七五万円並びに右各金員に対する昭和六二年四月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 片野悟好 裁判官 成川洋司 裁判官 柴山 智)

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